新興株式市場の創始
また妙なテーマでと思われるかもしれないが、新興市場の始まりについてフォトを交えて短く記す。
1972年にニューヨークで24名の仲買人が「すずかけ協定」を締結したのがニューヨーク証券取引所(NYSE)の起源というのは知られた話だが、NYSEが主だった企業の株式を売買するのは20世紀になってからである。それまでは国債や州債などの公債、海運・鉄道といった堅いインフラ産業の社債、株式はほんの小規模の取引というものであったという。
19世紀後半の第二次産業革命で世界一の工業国にのしあがったアメリカの原動力である製造業は、当時取引所に上場していなかったのか。
NYSEに上場した民間企業は、鉄道、金融を除けば僅かであった。例えば、1885年のNYSEの取引株式銘柄数151社の内訳は、鉄道122社、公益事業5社、鉱業11社で、製造業は13社にすぎなかった。製造業の多くは、せいぜいが地元の証券取引所(ピッツバーグやボストンの取引所)に登録されて売買されるか、あるいは『カーブ市場』(Curb Market)と言われたニューヨーク・マンハッタンの屋外の路上の青空市場で売買されるしかなかった。したがって、19世紀後半に勃興した新興企業は、(確たる記録が多数残っているわけではないが)カーブ市場で株式が売買されていたのである。
このカーブ市場は、1921年に正式にマンハッタンの建物の中の屋内取引に移行してアメリカン証券取引所となり、現在はNYSE AMEXの名で営業されている。
アップルのロクでもない野郎
1976年、21歳のスティーブ・ジョブズは、レジス・マッケナの紹介でセコイアキャピタルのドン・バレンタイン(当時43歳)に会った。
そこでジョブズに会った後、バレンタインがマッケナに言った言葉が面白い。
"Why did you send me this renegade from the human race?"
(このロクでもない大バカ野郎をなんで来させたんだ?)
バレンタインは出資には興味はなかったが、昔の同僚のマーク・マークラにその話をした。興味があったマークラは結局25万ドルをアップルに出し(株式8万ドルと貸付17万ドル)、結局アップルの公開時にはマークラはアップルの3分の1の株式を所有し、その時価総額は2億ドルとなった。
セコイアのバレンタインは、その後にアップルに出資して利益を上げたが、最初にジョブズに会った後に投資の検討を進めれば膨大な利益となっただろう。伝説的な成功をおさめているセコイアも、アップルで「チャンスの前髪」を逃がしたのである。
ジョブズ死去の折、22歳年上のバレンタインはあのrenegadeという言葉を思い出したであろうか。
(注:renegadeとは日本人にとって翻訳しにくい英単語。直訳すればキリスト教の背信者・裏切り者だから、最大限にあざけった言葉だと思う。)
下の写真は25万ドル分のチェックをジョブズに渡すマーク・マークラ。この記念写真を撮った時、この紙切れが2億ドルになるとマークラは期待しただろうか。
スティ−ブ・ジョブズ:先端、反骨、親和、泥臭の奇妙な同居
10月5日の逝去以来、多数の記事が出ているので、ここでは彼の一生に対する私自身の感想を記す。
■ジョブズの匂い
言うまでもなく、彼はIT業界で最先端を走り、鋭い風貌、颯爽とした姿という持って生まれた格好良さ、高速回転の頭脳、立板に水の弁舌、こうした要素が彼のカリスマ性のベースにあったことは間違いない。
反面、過去30数年間、彼から多くの人々が感じてきたのは、先端性や格好良さと反対概念の、泥臭さ、独善、反骨、直情、ロック(音楽)といったイメージ、別の言葉でいえば、スマート、ジェントル、エリート、クラッシック(音楽)のような「善きメインストリーム」へのアンチテーゼである。
有名なAppleのロゴの変遷も、完成し人々が見ているロゴは、時代時代で先端的でクールであったのだが、それを決める過程での騒動が、(多くの書物や手記に書かれているように)何とも感情的で人間臭い。そうしたジョブズやAppleに関するエピソードは過去に多数発表されているが、それらが公にされればされる程、本来デジタルで計算するだけの冷たい箱が何がしか温かい感性を併せ持っているように感じさせてしまうという人間親和性が加味されてきたように思う。
■ロゴからみた初期のApple
Apple Computer社(現在はApple Incorporated)が設立された直後の社のロゴは、現在のような「囓りかけのリンゴ」ではなく、ペン画だったことはご存じの方も多いだろう。 Apple Computer社は1976年4月にジョブズとウォズニアックにより設立されたという事になっているが、事実としてはもう一人の共同設立者ロン・ウェイン(Ronald Wayne)がおり、3人によるパートナーシップが原型であった(その後、パートナーシップは投資家マイク・マークラによる25万ドルの出資を得て1977年1月に株式会社に改組された)。ウェインはアップルに加わって1年も立たずに10%のAppleのオプションを800ドルで放棄して退社し、今はネバダ州で年金生活しているというが、創業当初のApple最初のロゴは彼によってデザインされたものである(図)。
このペン画は「リンゴの木に寄りかかるニュートン」を描いたものだったが、ロゴへのイメージは今も昔も同じであろう。今から35年前の1976年のことだから、現在の価値感でロゴを語ってはいけないのかもしれないが、それにしても堅苦しくて複雑で古くさい。「シンプル」、「クール」が口癖のジョブズがよく怒らなかったものだ、と思うほどのスケッチ(というより銅版画)である。
■6色ロゴ時代
ジョブズはしばらくして、そのロゴが堅苦しいイメージであること、そして小さくして利用するのには適していないことを理由にロゴを変えることにする。 具体的には1977年にレジス・マッケンナ社(広報コンサル会社からスタートし、1990年代はシリコンバレーのITコンサル会社として風靡したが、その後解散)に依頼し、同社のアート・ディレクターであったロブ・ヤノフ(Rob Janoff)が現在のロゴの先駆けとなった6色のアップルロゴ、すなわち「囓りかけのリンゴ」をデザインした(図)。
ヤノフによると、なぜかじった箇所をリンゴに入れたかは、広く言われているようなbite≒byte説ではなく、「トマトと間違えられないように」であったという。彼は、ジョブズはロゴにAppleという会社をhumanize(人間的にする)役割があると考えていたという。そのために、6色カラーの配置の最上部は緑だと主張した。なぜかといえば「リンゴの上には緑の葉っぱがあるだろう、それでなければ不自然だ」とジョブズは言ったという。
はたまた騒動があった。ヤノフは6色の境界線に黒い線を入れることを提案した。印刷時に色合わせが楽なためだったが、ディティールにこだわるジョブズはこれを強く拒んだ。それやこれやで、当時のApple社長マイケル・スコットは「もっとも印刷に金のかかるロゴ」と嘆いたのである。
■ノスタルジーを打ち破る
このようなAppleの象徴とされる「魅惑の6色」アップル・ロゴは、1997年、ジョブズが暫定CEOに就任するや、単色のアップル・ロゴに置き換わっていく。そして1998年にリリースされたPowerBook G3に初めて単色のアップル・ロゴが使われ現在に至っている(図)。
6色ロゴはジョブズだけでなく社内には伝説にも似たこだわりがあったのだろう。これまでAppleの製品や印刷物にはすべて6色ロゴが常に使われてきたというイメージがあるが、実際にはジョブズがAppleに復帰する以前にも単色のAppleロゴが使われていた。しかし、6色ロゴのデザインを事実上支配したジョブズが帰ってきたからこそ、6色から新たなリンゴに殻破りすることができたのだと私は思う。なにせ、1970年代から90年代までのマックユーザーにとって6色ロゴはアップルそのものであり、かつ最盛期へのノスタルジアでもあったのだ。
なぜ6色を捨てたのかは私は知らない。勝手に推定すれば以下の3つが要因ではないかと思う。
一つは、コンピュータという箱(筐体)は小さくなり、膝に乗せ、ポケットに入れる時代になった。同時にプラスチック製造加工技術が進歩すると共に、箱を手で扱うようになったために、筐体は角を取って丸みのあるデザインとなった。その中では、水平直線で重なった6色のリンゴは時代の製品にそぐわなくなったのではないか。二番目はグローバルにおけるコーポレート・デザインの潮流である。製品は欧米や日本のみならず、発展途上のアジア、ラテンアメリカ、イスラム、アフリカへと、ほぼ共通のものが販売され、ましてや社名は世界共通である。当然、ロゴは世界中の人々が最大公約数的にイメージされることが主なターゲットとなり、ロゴ・デザインは「simple」、「impressive」なものになっていった。ナイキのスウォッシュ、マクドナルドのMがそれである。Appleも自然それに追随し(同社のことだろうから否定するだろうが)、ジョブズの強いシンプル指向もあって、単色化されたと考えることができよう。三番目は先に述べたようなAppleの再生を社内外に象徴づける役割である。この件に関してはジョブズが発言していないようなので、私の推測にすぎない。
以上、結論のないことを書いてきた。ジョブズを失った時、(普段何がしかうっすらと感じてはいたものだが)彼がグローバルに主張を発信し、また個人的にも人間の生(き)を貫いてきた男であったことを改めて思い知るのである。
アメリカという国は時代時代で印象に残る人物を輩出するところだと改めて思う。
■番外
余談だが、ジョブズと音楽を重ねあわせるとすれば何か。当然、ロック音楽だろう。ボブ・ディランの"Like A Rolling Stone"か、ビートルズの"Let It Be"か、ジョン・レノンの"Imagine"か。3曲ともジョブズが好んだそうである。松尾公也氏は「スティーブ・ジョブズが好きだった曲〜ビートルズ、ボブ・ディラン」の中で、ジョブズはこう言っているという:
「僕くのビジネスモデルはビートルズだ。互いの欠点をチェックし、バランスがとれていた。個々をあわせたものよりも優れていた。優れたビジネスは一人ではなくチームによりなされる。」
まあ、そうなのだろうが、私のイメージの中では、ジョブズはドゥービー・ブラザーズのトム・ジョンストン(Thomas Johnston)である。野太い声、世界一流のギターテクニック、美しいハーモニー、一貫したプロフェッショナリズム、70年代の最盛期後に健康を害したことによる長期休養とバンド脱退、87年からの復帰、そして63才の現在も年間100回を超えるコンサートをこなし第一線にあるキャリア。ジョブズとトムのキャラクターと人生に、何故か重なるものがあるように感じる。
ドゥービー・ブラザーズの数ある名曲の中で、ジョブズをイメージするとすれば何か。"Long Train Runnin'"、"Listen To The Music"、"What A Fool Believes"あたりだろうが、やはりiPodだから"Listen To The Music"としよう。快活な歌詞とリズムはジョブズをイメージできないけれども、自分勝手ながら彼を想う曲としておきたい。
"Listen To The Music" 作詞・作曲 Tom Johnston(1972年)
Don't you feel it growin', day by day
People gettin' ready for the news
Some are happy ,Some are sad
Oh, we got to let the music play
What the people need is a way to make 'em smile
It ain't so hard to do if you know how
Gotta get a message , Get it on through
Oh now mama, don't you ask me why
Wow Woo, listen to the music
Wow Woo, listen to the music
Wow Woo, listen to the music All the time
高校生向け「イノベーションと企業」
高校生向けの模擬授業のために作ったパワーポイント・スライド「イノベーションと企業」です。
大学で何をやるかにポイントを置いて、歴史を照らし合わせて作ったものですが、参考になれば幸いです。
アントレを原点から書いてみた
年度末と大震災の余波で途端に忙しくなって、このブログをメンテナンスしないままになっている。
代わりにというのも恥ずかしいが、一冊学生向けにアントレプレナーシップのテキストを書いたので、関心を持たれればご覧頂きたい。
ベンチャー・ウォッチャーらしく、Slideshare(2006年サンフランシスコで創業、Venrockが投資、現在従業員30名)にテキストを掲載したが、3日で1500viewを頂いた。予想外の関心でviewerにお礼申し上げる。
アントレプレナーシップというと・・・ベンチャー、IPO、ネットビジネス、そして若手起業家と、実際のベンチャー企業の活動そのものとみるのが常だが、根っこから考えてみるとそんなことはない。新事業の種をまいて芽を出して育ってから結実するはずであるのに、世の中は「花」しかみない。現実とはそんなものかもしれないが、真実のプロセスはそれとは違うはずだろう。
とまれ、私が言っても蟷螂の斧。巷の世は外側しか見ないけれども、これから社会に出る学生には本当の過程(と私が思うもの)を教えるべきではないかと、不肖考えてみてまとめたのが件のslideshareのテキストである。一夜漬けの弊はぬぐえないことを記しておきたいが。
(slideshareのテキストは、第1部と第2部に分かれている。)
チャンスの神は前髪しかない:フェイスブックで30億ドルを得た者と逃がした者
未公開企業で史上最大の換算時価、というフェイスブックだが、今月のニュースでは650億ドルに達した。この4月で設立7年の未公開企業がソニーの時価総額(3兆円)を上回るのであるから、騒ぎにならないほうがおかしい。
フェイスブックの生い立ちから追ってみよう。(以下は各所から収集して得たものであり、情報の正確性には限界がある。)
2004年2月、ハーバード大学1年のマーク・ザッカーバーグは、学内の学生専用のコミュニティを作り「ザ・フェイスブック」と名づけて始めたが、すぐにアイビーリーグの他大学からリクエストがあり、彼らにもサービスを開放する。ザッカーバーグはサイトを始めた直後から起業を考えていた。開始直後の2004年4月にLLC法人(Limited Liability Company)を設立し、2004年夏にはデラウェア州の株式会社(Facebook, Inc.)に改組した。設立時の株式配分で当初の幹部(CFO)であったエドアルド・サベリンと紛糾して裁判になったことは映画「ソーシャル・ネットワーク」にも出てくる。
この次に起こったことが本稿の重要なエピソードである。同年4月、ザッカーバーグとサベリンは地元ボストンのホテルで資金調達のためにベンチャーキャピタルと会合を持った。このVCがボストン近郊を拠点とするBattery Venturesである。二人は2回目の会合でBatteryに出資条件を示し、会社の時価総額は1500万ドル、Batteryの出資額は100万ドルから300万ドルの範囲ならOK、というものであった。この時代のスタートアップ投資とすれば法外な条件ではない。Batteryが300万ドル出資すればフェイスブックの2割前後のシェアを持つことになるからだ。
しかし、Batteryは二人にNOと言った。他のソーシャル・ネットワークサービス(Friendstar)に投資していたし、同社のパートナーがザッカーバーグの言動にカチンときたらしい。どうもそれが拒絶の理由のようである。
そこでザッカーバーグは、仲間二人と一緒に西に移ることになった。2004年7月には開発拠点をカリフォルニア州のパロアルトに移して資金調達を本格化させる。ある手ずるによってサンフランシスコのPeter Thiel(元PayPalのCEO、現在はThe Founders Fundを運営)を紹介してもらい、8月にシールのオフィスで会う。ところが、シールもBatteryと同じくFriendstarの出資者であった。しかし、ザッカーバーグのプレゼンが終わった後で、シールが昼食を食べてこいと彼に言う。ザッカーバーグがシールのオフィスに帰ってくるなり、「投資を決めた。条件も基本的にOK。」という回答をした。9月、フェイスブックは正式にシールから50万ドルのエンジェル投資の資金を得る。このあたりが面白いところだと思うが、シールの投資条件は4ケ月前のBatteryよりずっと良かったのである。すなわち、シールは50万ドルでフェイスブックの約10%のシェアを得ているから、この投資時点での同社の換算時価はおよそ500万ドルでBatteryの1500万ドルの三分の一である。ザッカーバーグがBatteryに蹴られて弱気だったのか、シールの交渉が上手かったのか、真相はわからない。
ともあれ、こうしてシールがフェイスブックの最初の投資家となった。その後のフェイスブックの発展は世の知るところであるが、2005年、2006年にはベンチャーキャピタル(Accel Partners他)が合計約4000万ドルをフェイスブックに出資を行った。2007年10月にはマイクロソフトと提携し、同社から2億4000万ドルの出資を得る。この時のフェイスブックの換算時価は150億ドルであった。
最初の話に帰ろう。現在の取引上では、フェイスブックの換算時価は650億ドルである。情報によると増資を繰り返しているためにシールの持株比率は約5%になっているというが、時価650億ドル×5%ならば、シールの保有するフェイスブックの株式の価値は約32億ドル、円換算で2600億円超。つまり、2004年9月に投資した50万ドルが現在は「6400倍」になった計算になる。
シールはまだ株式を売却してないようであるから、この6400倍が皮算用ではあることは確かであるが、おそらく外部投資家によるベンチャー投資とすれば史上最高の倍率であろう。伝説的な倍率といえば、1957年にアメリカン・リサーチ・ディベロップメント(ARD)がミニコンのDigital Equipment Corporationに投資したリターン(約5000倍。7万ドルの出資+200万ドルの融資がDECのIPOで3.5億ドルの価値となる)、1961年にアーサー・ロックがScientific Data Systemsに投資したリターン(約230倍といわれる)を上回るものである。
逆に、ボストンのベンチャーキャピタルは、逃がした魚はあまりにも大きかった。結果論に過ぎないといわれればその通りであるが、Battery Venturesはフェイスブックに100万ドル出資していれば、おそらく20億ドルの価値を得られ、ベンチャーキャピタルとして歴史に名を残すスーパースター・ファンドとなることができただろう。しかし、これは「タラレバ」である。ザッカーバーグがボストンに残って、今のフェイスブックを創りあげることができたかどうか。あれだけの人材や提携企業をシリコンバレーではなくボストンで得られたかについては否定的な意見も少なくない。
”afferrare la fortuna per i capelli.”(運命の女神の前髪をつかめ)とイタリア人は言うが、サンフランシスコのピーター・シールはランチの合間に決断して前髪をつかんだが、ボストンのBatteryはできなかった。もっとも、逃がしただけで大損はしていないから、次なるフェイスブックを獲ようとすればよいのだが、果たして第二のザッカーバーグは現れるものだろうか。
ベンチャー投資は、経験的には大胆さが勝利を得る。西海岸の投資家の積極的なやり方が裏目に出るとしても、それには時間がかかる。シリコンバレーは1970年代以来ボストンをリードしている。西海岸の投資家にはネットバブルの崩壊という天罰があったが、しかしそれ以降も西はさらに東海岸と世界を引き離しているようだ。
「ググられ度」にみるフェイスブック
映画の入りが今一つだったせいで、先週はフェイスブックが日本では流行らないと示唆するようなタッチで記したが、後で少し考えてみた。ブログの良い所は記事をフォローアップできる点である。
映画とコラボするように、1月29日号の週刊ダイヤモンド、2月1日号の週刊エコノミストがフェイスブックの特集を組んでいるせいか、インターネット上ではかなり盛り上がっている感じがする。もっとも、ネットは世の大多数を占めるレイト・マジョリティからは先走りすぎて関係が薄いのが普通ではあるが。
グーグル・トレンドでGoogle検索数を調べたのが図(上)だが、日本国内で「フェイスブック」のGoogle検索件数は想像以上に急上昇している。グーグル・トレンドの計測値は、キーワード(ここでは日本語の「フェイスブック」)が各国でググられた検索件数を相対値で示したもの。だから、図の数値は検索件数の多少ではなく、あくまでもGoogleがそのキーワードを登録した時点と比較してどれだけ増えているかとか、他の時点と比べて増えているか減っているかの比較に使うことができる。
相対比較とはいっても、フェイスブックは急速にググられている。図のように去年初めのツイッターと同じような動きだが、検索数の増え方はツイッターを上回り、今年になって最近3週間で検索数が5倍になっているようだ。
フェイスブックが凄いのは、アメリカ国内ではこの相対値が現在まで2年以上にわたって継続的にどんどんと増えていることである(図・中)。この違いは日本のSNSと比べれば想像できるだろう(図・下)。とにかくネットユーザー全体がフェイスブックがらみで何かを探しているということだ。ユーザーが誰かにアプローチするために検索が増えているのか、アプリを調べているのか。ともかくも、他人がフェイスブックの中は調べられないから、ターゲットとなるユーザーの玄関(ユーザーネーム)を検索して友達になるしかない。玄関の中までは検索できないグーグルにとっては6億人のコミュニティは脅威なのだ(と想像する)。
ただし、このグーグル・トレンドの数値はサイトのトラフィック全体数とは別物だ。検索はインターネット空間で能動的に動いて収集する層が行う行動であって、そのマーケットにフェイスブックの認知度が高まっている、流行っていると考えたほうがいい。さて、斬新な洋物で終わるか、日本のネット文化に根づいていくか、目は離せない。風吹けば桶屋、ツイッターやフェイスブックのおかげ?で、日本のネット企業の株価もここ2ケ月は一部は見直されているし、今年はLinkedInがIPOを予定、フェイスブックも来春の株式公開を検討中と大きな話で賑わい、株式市場が盛り上がる材料が出てきた。
しかし・・・Facebook、日本語ではフェイスブックと言うのが同社の定める正式名称だが、グーグル・トレンドをみると、「フェースブック」も併用されている。読売新聞と日経ビジネスは「フェースブック派」、日経新聞は両者を併用。どっちを使おうか。